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赤壁古戦場
せきへき
こせんじょう |
三国志、三大戦場の1つ。
208年の11月、曹操(そうそう)VS孫権・劉備(そんけん・りゅうび)連合軍による
「赤壁の戦い」の古戦場跡。
孫権・劉備連合軍が黄蓋(こうがい)の苦肉の計(くにくのけい)やホウ統の連環の計(れんかんのけい)、周瑜・孔明の火攻めなどによって大勝利を収める。
その時、燃え上がる曹操軍の大船団の炎で岸壁が真っ赤に染まり「赤壁」の名が付いた。
赤壁の戦いは三国志の中でも最大の見せ場。
特に呉(孫権軍)の都督・周瑜(しゅうゆ)にとって最大の活躍の場となっている。現在、赤壁古戦場には大きな周瑜像が立っており、川の絶壁に書かれた有名な「赤壁」の文字は周瑜の筆跡とも言われている。
諸葛孔明(しょかつこうめい)が火責めに必要な”東南の風”を祈祷した拝風台もある。そのほか赤壁文物陳列館では当時の出土品等の展示等もある。 |
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岳陽
がくよう |
呉の宿将の町、呉の水軍基地があった地である。
三峡(さんきょう)の渓谷を過ぎ、三峡ダムの建設現場を遠望して、葛洲覇ダムを通過、文字通りの大河となって対岸を進んでいる。
現在の岳陽楼(がくようろう)は1983年の復元建造で形は昔のまま保存されている。三層の純木造建築。
岳陽には魯粛の墓がある。岳陽楼から約400メートル離れた広大な敷地の一画にある。
大喬・小喬(だいきょう・しょうきょう)で有名な小喬の墓もある。小喬は周瑜(しゅうゆ)の妻。 |
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漢中
かんちゅう |
漢中は漢王室を興した高祖劉邦(りゅうほう)が漢中王(かんちゅうおう)となって力を秘めた地であり、劉備(りゅうび)もまた漢中王を宣言して初めて蜀全域を掌握したゆかりの地である。
また、漢中市勉県地区は諸葛孔明(しょかつこうめい)の眠る地でもある。
「わが屍は定軍山(ていぐんざん)の麓に埋めよ」の遺言により孔明が葬られている定軍山(ていぐんざん)は漢中市内から西へ30キロ程、勉県地区郊外にある。
勉県中心地から漢水を渡ると定軍山の山脈が目の前にありそこに武侯墓(孔明の墓)がある。清代に建てられた墓が並び、孔明像を祠った正殿がある。
孔明法書台、馬超墓、魏延終焉の地、木牛流馬処など見るべき所は多い。
⇒木牛流馬(もくぎゅうりゅうば 孔明が考案した輸送兵器) |
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剣門関
けんもんかん |
非常に地形的に険しい場所で、多くの詩人が蜀の桟道(しょくのさんどう)の危うさと共にその険しさを詠んだ関門である。険門七十峰と呼ばれる山々が連なり、その切れ目のほんの狭い谷間(川と岩山の間)に人口の道が設けられている。
ここは蜀(しょく)の将、姜維(きょうい)が最後まで守ったところ。関を蜀側に越えたところにある。姜維は人材のいなくなった蜀の中ひとり、強国 魏(ぎ)と戦った遅れてきた天才の将である。姜維は蜀で最後の名将といわれる。軍事面の劉備・孔明の後継者して彼の頑張りがかえって蜀の滅亡を早めたと酷評されることもある悲劇の人でもある。
剣門関からロウ中にかけて断続的に張飛(ちょうひ)が植えさせたという相樹並木が残っている。 |
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古隆中
こりゅうちゅう |
湖北省北西部の中心都市、襄樊市。襄陽(じょうよう)、樊城(はんじょう)の2つの名所を持つ古都である。
この大都市から西へ十数キロ、静かな山あいの樹々が青々とする隆中山(りゅうちゅうざん)の麓が諸葛孔明(しょかつこうめい)が隠棲していた所である。
人材不足を痛感していた劉備(りゅうび)が孔明を幕下に迎えるべく訪ねようと思ったのは、司馬徽(しばき)の勧めであり、当時の参謀徐庶(じょしょ)の推薦であった。
この3度の訪問があまりにも有名な『三願の礼』の故事である。
小虹橋、3本の古柏樹が立つ三願堂がある。劉備が関羽、張飛をお供に草蘆を訪ねたとき、駒を繋いだのがこの木である。
その正面の建物に郭沫若の書で「諸葛草蘆(そうろ)」とある。壁には清代の画家の描いた「三願の図」がかかる。三度目の訪問でようやく会えることになった劉備は、孔明が眠りから覚めるまで建物の外で静かに待った。目覚めた孔明に、劉備は天下統一の策を訪ね、そのとき孔明は世に名高い”天下三分の計”を提案する。
隆中山の麓は、彼の顕彰を願った記念堂がある公園となっている。南陽という場所にも臥龍崗(がりょうこう)があり、こちらが本当の孔明旧居との説もある。
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虎牢関
ころうかん |
虎牢関(ころうかん)は鄭州市の西約50キロで洛陽の東門に当る戦略拠点である。
後漢末期、陳留王(ちんりゅうおう)を擁し最初に権力を得て悪政を行った董卓(とうたく)を、曹操を中心にした連合軍が攻め戦った古戦場。
この辺りは山々が連なるが一ヶ所だけ途切れいる地に関を築いた。ここを閉じれば関中は安泰となる戦略拠点であった。
虎牢関は氾水関(こすいかん)と言う別名がある。
この山上に呂布(りょふ)の点将台の遺跡が残り、黄河への道筋に玉門古渡と渡し場がある。
三国時代、劉備、関羽、張飛らに追い詰められた呂布が、この鎖を引き上げ、関を閉じた。といわれる鎖もその当時のまま残っている。2000年も以前のものが今も残っているかどうか真偽のほどはわからないが武将たちを近くに感じることができる場所である。
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五丈原
ごじょうげん |
西安から西へ150キロ、泰嶺山脈の山塊が渭水(いすい)に仕切られ、両側を削り取られた渭水南岸に突き出た舌状台地となっている。
孔明が10万の兵を引いて5度目の遠征をしたのがこの五丈原(ごじょうげん)である。
五丈原は道路面から一気に120メートルほど登った台地、原頭に五丈原諸葛亮廟が北岸を見据えて建っている。
孔明はこの戦いで致命的な敗退もしなかったが、勝利も得ることはできなかった。
魏の知将 司馬懿(しばい)との最後の駆け引きが行われた場所である。
孔明は劉備の跡を受け継ぎ魏攻略をめざすが五度に及ぶ戦いでもその夢を実現できぬまま、この地で病で倒れ帰らぬ人となった。享年54歳であった。 |
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成都武侯祠
せいとぶこうし
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三国志の聖地ともいえるこの場所。
蜀の都 成都(せいと)は現在の四川省の省都でもあり大都市である。今や旧城は見た限りではどこにあったのか判然としない。武侯祠、武侯といえば孔明のことだが、実は劉備の陵と劉備廟でもある。
劉備殿内廊の左右には孔明が出陣に際し書いた名文「前後 出師表(すいしのひょう)」が刻まれた石がある。
劉備殿を越えると右手に文臣廊、左手が武将廊となりに群臣像がたち並ぶ。その奥には孔明殿、正面に孔明、左右に諸葛瞻・諸葛尚の像があり孔明の才能と功績が讃えられている。
近くには孔明と並び称された天才軍師のホウ統の廟などがある。 |
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張飛廟
ちょうひびょう
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このほど三段峡ダムの建設に伴い張飛廟は移設された。
ロウ中で部下の范疆、張達(はんかい・ちょうたつ)の二人の部下に殺された張飛の首が、郭陵江に投げ捨てられ流れ着いた場所、。またその後、呉へ寝返った二人から差し出された首が、呉の孫権(そんけん)から送り届けられこの地に廟を作った場所ともいわれている。
以前あった場所はダムの下に沈み、過去観光船で三峡下りを楽しんで船上から廟をながめ、壁面の文字を見上げることは今はできなくなった。 |
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中
ろうちゅう |
ロウ中は張飛の町、彼が部下に殺された地である。ここにも張飛廟がある。
手前が廟で、奥が墓地、廟内にある張飛の像は何か苦悶な表情をうかべている。
この地では彼は賢い人であったといわれており今でも尊敬されているという。
この地には張飛が植えさせたとされる並木が今もも残っている。
ロウ中は大きく三方を嘉陵江(かりょうこう)に囲まれた地だが、船着場から城内に入る入口に当るところに楼門が建っている。ここが旧市街である。
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長阪披
ちょうはんは
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湖北省の西部、当陽県の西南の丘陵が長阪披の古戦場である。
ここは趙雲、張飛(ちょううん・ちょうひ)が名をあげた戦いの行われた場所である。
荊州の劉表を頼って劉備(りゅうび)は新野(しんや)にいた。劉表(りゅうひょう)の死去と共に曹操(そうそう)は荊州奪取を狙って襄陽を目指し大軍を発した。劉表の跡をついだ劉j(りゅそう)は戦わずして降伏、劉備は利あらずとみて江陵に向かって撤退する。その時、劉備を慕って住民がつき従った。そのため、遅れをとり曹操に追いつかれやむなく応戦、惨敗して家族・部下・住民ともにばらばらとなる。
その中で単騎、曹操軍に飛び込んで大奮戦したのが、劉備の警護役 趙雲(ちょううん)であった。劉備の婦人たちを救出、次に劉備の子阿斗((あと)後の劉禅(りゅうぜん))を探し救い出す。しかし、婦人は足手まといになるのをおそれて自殺。(正史では生き延びたとある)
敗走する劉備軍の殿(しんがり 撤退の最後尾)を努めていた張飛が、長阪橋で大矛を構えて仁王立ちして曹操軍をくいとめた。劉備が窮地を脱する事ができたゆかりの地である。
このとき張飛は”100万の敵に匹敵する”と曹操(そうそう)にいわしめた。
今、この古戦場は長阪公園となっている。 |
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葭萌関
かぼうかん |
広元市郊外の昭化古城は旧名を葭萌関といい、張飛と馬超が夜を徹して戦った場所である。
魏呉蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ漢中の張魯(ちょうろ)の南下に対して援軍として出撃。成都進出への足がかりを作った。
当時、曹操に破れ張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦う。
張飛と馬超は決着がつかず馬超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せる。
以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍のひとりとなる。
昭化古城は揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地とも言われ、東西南北の各関に通じる、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体が遺跡となっている。
蜀の名残り朝天関から昭化古城、検門関と見所がたくさんある場所である。 |
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統祠
ほうとうし |
ホウ統祠は三国時代に植えられた樹齢1700年の二本の老柏樹が迎えてくれる。成都から約80キロ北方のコ陽市の北のはずれの丘の上にひっそりとある。
門を入ると座して話をしている2体の像が見える。右が孔明、左がホウ統。
当時、このふたりのうち一人を得れば天下を得ることができると称された天才であった。
劉備は二人を配下にすることにより大きく飛躍し三国の一角の地 蜀(しょく)を得る。
この蜀を攻略する途中で惜しくも参謀ホウ統が矢に当たり戦死する。
その奥が棲鳳殿、そこにホウ統の立像がある。清代に作られた上品な像である。
さらに奥に、漢靖候ホウ士元之墓とある。その裏手は800株ほどの古柏の並木が続く。これは成都から昭化古城まで続く古代の幹線道の金牛道の名残りである。 |
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桃園
とうえん
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劉備、関羽、張飛(りゅうび、かんう、ちょうひ)が出会ったこの地は北京から60キロほどの華北平野の中にある。
ここは3人にちなんだゆかりの地であり伝説にこと欠かない。今も3人の魂が息ずく。
3人の出会いは張飛が井戸に吊るしていた肉を、重い蓋と共に持ち去った男、関羽と大喧嘩になり、その仲裁に入ったのが劉備である。その後、3人は意気投合する。
桃園で義兄弟のちかいを結んだのは『三国志演義』の作者・羅貫中の創作としても、3人がこの地で出会ったのは確かなようだ。3人が義を結んだのは、張飛邸の裏庭の桃園としているが、吉川英治は劉備宅の裏庭の桃園という設定にしなおした。これによりいっそう劇的となったといわれる。
張飛の古里、忠義店は三国時代以降は張飛店と呼ばれる場所であり、そこに前述の井戸がある。煉瓦積みの台の上に龍を彫った円形の井戸枠があって、肉を吊るしたロープの跡まで残っている。真偽は別にして張飛が使った井戸として今なお語り継がれている場所である。 |
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武漢
ぶかん |
長江大橋が亀山と蛇山に足をかけ、揚子江を横断してる。以前は呉の魯粛墓
が、橋脚の立つあたりにあったらしいが大橋建設で取り壊され、現在は武漢市亀山公園内に昔の姿で再建された。
ここは、古代楚の匡、漢水が揚子江に注ぎ、漢口、武昌、漢陽の三地区に分かれ、武漢三鎭とよばれ、交通の要衝、戦略の要衝で古来より争覇の地であった。辛亥革命もこの地で口火が切られ、近代中国の出発点といえる。
武漢には孫権(そんけん)が築いたとされる黄鶴楼(こうかくろう)がある。 |
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白帝城
はくていじょう
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有名かつ貴重な三国志名所・遺跡のひとつ。
瞿塘峡、巫峡、西陵峡と名付けられ、三峡と総称される船下りを楽しむ揚子江の三峡の壮観はここ奉節から始まる。
奉節から4キロほど下流にある、江に面して突き出ていた白帝城。しかし現在は三峡ダムの建設により周りの景観が一変してここだけが浮島のようになったようである。
夷陵の戦いで劉備は呉の陸遜に大敗をきして、この白帝城に逃げ延びた。
しかし、戦いの疲労もあり失意のままここで劉備は孔明に後事を託し永眠する。
今、門を入ったところにある托孤堂(たっこ
どう)に塑像でこの名場面が復元されている。
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諸葛宗祠
しょかつそうし |
諸葛亮の故郷・山東省沂南県では、諸葛氏の祖先を祭る宗祠が今年2005年に作られた。
新たな三國志の名所。
「諸葛宗祠」の敷地面積約6700平方メートル、建築面積3600平方メートル、
約1千万元(1.3億円)を投じて建設。
宗祠には40人が祭られ、12体の坐像、11点のレリーフ・刺繍の人物像18点が安置。
宗祠は3つの主殿、2つの側殿からなり、中央の大きな主殿は「全人堂」、残り2つの主殿は「本源堂」、「冠蓋堂」、 諸葛氏の祖先、諸葛亮の父の代、諸葛亮の同世代の人物、
西側の側殿は「萃華堂」と呼ばれ諸葛亮の子孫や諸葛氏出身の男女が祭られている。
主な祭られている諸葛一族
諸葛瑾、諸葛均、諸葛恪、諸葛珪、諸葛玄、諸葛尚、諸葛誕、諸葛瞻 等
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諸葛八卦村
しょかつ
はっけそん
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江省中西部の蘭渓市に
諸葛亮の直系末裔が今なお三千人あまり在住している村。
諸葛亮の27代目、孫諸葛大獅がつくったといわれる。
中国において諸葛亮末裔の最大なる集落となっている。
子孫は諸葛亮の<誡子書>を教訓にして生活をしている。
大公堂を中心に非常に精密に円形状の村の中に古代建築物が配置されている。
中国遺跡観光としても十分に楽しめる場所である。
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