■天下三分の計(てんかさんぶんのけい)
「天下三分の計」とは、群雄割拠の乱世、常に騒乱が起き、天下は広すぎてこれを統一するのは容易ではない。これを収めるには、天下を鼎の形に三分した上で他の二国を戦わせ、疲弊したのを見計らって天下を取るという策で、古くは前漢の初めに?通(カイツウ)が韓信(カンシン)に説いたのがはじめとされます。呉の軍師、魯粛も「天下三分の計」を君主孫権に奏上しています。そのなかでも最も知られているのが諸葛亮が劉備に説いた「天下三分の計」です。
若き諸葛亮が住んでいた臥龍崗(ガリョウコウ)が荊州の首都、襄陽の外れの隆中(リュウチュウ)という集落で語った事から、これを「隆中策(リュウチュウサク)」または「隆中対(リュウチュウタイ)」とも呼ばれます。
曹操に追い立てられ、一時、劉表のもとに身を寄せていた劉備が、諸葛亮を得るために三度赴いた「三顧の礼」で、はじめに諸葛亮が劉備に奏したのが「天下三分の計」です。
「北の曹操は天子を擁し、いまや中原に臨んですべてにおいての勢力は絶大で、すでにまともに戦うことは容易ではありません。南の孫権の有する江東は長江に沿い地の利もよく、豊穣な土壌を有し、すでに孫氏三代が有してきた地盤は固まっています。いまや曹操と孫権に二分されたかのように見える天下ですが、唯一、どちらの勢力にも属していない荊州と益州を領有し、三国鼎立(サンゴクテイリツ)をなして安定を保ち、その後、機を見て呉と結んで魏を倒すことができれば、おのずと呉も手中に収めることができ、漢室の復興も成しえるでしょう。」と諭しました。
そして、赤壁の戦いのあと、劉備はようやく荊州、益州を有することに成功するのでした。
その後、天下三分の計の実現に向かうかと思われましたが、荊州を守る関羽が呉の呂蒙、陸遜らに謀られ殺され、更にその仇討ちに出た劉備までもが白帝城に没し、天下三分の計は結果的にここで潰えてしまうことになりました。
魏・呉・蜀の三国分立の形は保つも、本来の天下三分の計による漢室復興を成し得なかった諸葛亮は、五度にも及ぶ魏への北伐に克復中原の希望を託すことになりますが、志ならず陣中で没するのでした。
イラスト:ささめ蝉丸さん