
我々の愛する三国志を形にしていきます!題して「三國志を作る」

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(かく)
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字は文和。張良・陳平のような謀将。若いころ賊徒に捕らえられた際、段珪(後漢後期に西方で武威をとどろかせていた将軍)の一族だとブラフをかまして生き延びた。
その後、董卓・李カクに仕えた。董卓の死後、長安攻撃を主張して李カク・郭シの政権確立に寄与したが、彼らを抗争を始めると長安を離れて、南陽の張繍の幕僚となった。その後、張繍が曹操と戦争を始めると卓越した読みで曹操を幾度も撃破した。しかし、天下が袁紹と曹操の両雄に集約されると曹操の長所を挙げ、張繍を曹操に付かせた。
西暦211年、馬超・韓遂が反乱すると、謀略をもってかれらを離間し戦勝のきっかけをつくった。
魏国が固まって後、曹丕・曹植の間に後継者争いがおこると、袁紹・劉表の例をだして婉曲に曹丕後継を曹操に諭した。西暦223年病没。 |
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(ちょうこう)
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字は儁乂。黄巾の乱の討伐に従軍し将校となり韓馥の指揮下に入った。韓馥滅亡後は袁紹の臣となり、公孫サン戦に活躍、重臣の席に列した。
官渡の戦いで烏巣兵糧基地を襲撃された折には、郭図が曹操本営攻撃を主張したのに対し烏巣救援を主張したが容れられず、本営攻撃の指揮官を命じられた。曹操軍本営は張コウの読み通り十分な備えがあり、攻めきれなかった。進退窮まった彼は曹操に降伏しために袁紹軍は総崩れとなった。
以後は、地方の反乱討伐に従事し、漢中を平定すると夏侯淵とともにその地を守備した。夏侯淵が戦死すると諸将に推されて司令官を代行し、曹操の救援到来まで漢中を死守した。
その後も軍部の重鎮として様々な戦いに参加、諸葛亮の第一次北伐では馬謖を街亭で破り、撤退に追い込んだ。
西暦231年、第四次北伐では、撤退中の蜀軍を追撃して木門で交戦、戦死した。 |
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(とうがい)
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字は士載。魏の名将。吃音(どもり)だったと言われている。
もとは地方の役人であったが、司馬懿に見出され農政・軍事に活躍した。カン丘倹の乱では反乱軍に先んじ楽嘉に入り、進攻してきた文欽軍を撃破した。その後西部方面に転じてからは郭淮と協力し度々侵入してきた姜維を撃退している。
西暦263年、蜀への侵攻が始まると三万の別働隊を率いた。主力が剣閣で足止めされると彼は陰平から山間部に入り、剣閣を迂回して直接成都に攻め込む作戦を採る。人跡未踏の険路を進み江由に進出、綿竹において蜀軍を抵抗を受けるが、敗れれば全滅を免れないトウ艾軍は猛攻を加え撃破、そのまま成都に進み蜀を降伏させた。
その際、専断権を発動して、蜀の旧臣に官位を与えた。しかし、これが鍾会に付け込まれる隙となってしまった。独立のおそれありと逮捕さえ、処刑された。 |
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