黄巾の乱(こうきんのらん)を鎮圧したものの、漢朝の衰えは覆いがたく、各地で兵乱が頻発した。また朝廷内においても、外戚・何進(かしん)を中心とした勢力と中常侍(ちゅうじょうじ)を中心とする宦官(かんがん)の勢力が権勢を争っていた。まさに内憂外患であった。
西暦189年、12代霊帝が崩じ少帝(しょうてい)が即位すると何進はこの機に乗じて宦官を一掃せんと計画した。これはまもなく宦官方に漏れることとなり、何進は先手を打たれて暗殺される。これに対して何進派の袁紹(えんしょう)は、軍勢を宮中に入れて報復を開始、洛陽は大混乱に陥った。
この混乱に紛れ、少帝と陳留王(ちんりゅうおう)は城外に連れ出されれしまう。そして彼らを保護したのが何進により要請を受け上洛していた董卓(とうたく)であった。帝を手に入れた董卓は、何進亡き後、宙ぶらりとなっていた洛陽の諸軍をすばやく吸収、都を掌握する。『董卓の乱』のはじまりであった。
@北芒の図
西暦189年8月27日、何進暗殺の報復に袁紹ら大将軍派の将校は、宦官を根絶やしにせんと宮中に乱入、洛陽は騒乱の巷と化した。中常侍・段ケイらは帝を袁紹に渡すまいと混乱に乗じて少帝と陳留王を連れて城外に脱出する。しかしまもなく皇帝を捜索中であったビン貢に捕捉され、段ケイらは自殺、少帝と陳留王は保護された。
そして漢朝の陵墓が並ぶ北芒で文武の諸官と合流した。そのとき西方より砂塵があがり数千の軍勢が現れた。上洛中の董卓軍であった。
あまりのことの狼狽する少帝。近侍していた重臣・崔烈(さいれつ)は、
「詔勅である。軍勢をさがらせよ!」
と董卓に命じた。
董卓は、
「大臣どもが政を正せず、今日の事態を招いたのではないか!兵を下げよとはいかなる事か!!」
といって、廷臣たちから帝を奪い洛陽に入城した。
このとき少帝は、恐怖で満足に口も利けず、対して陳留王は受け答えに筋が通っていた。これを見た董卓は皇帝の廃立を考えたと言われている。 |