後漢朝末期、政治腐敗や重税により社会不安が蔓延しつつあった。張角(ちょうかく)を教祖とする新興宗教
「太平道」は、これを吸い上げるかたちで急速にその教勢を拡大した。
これが張角に漢朝打倒の野心をおこさせる。そこで張角は反乱準備として教区ごとに軍団を編成させ、幹部・馬元義(ばげんぎ)に当時政治の実権を握っていた宦官の内応工作をさせた。
しかしまもなく政府当局により馬元義が逮捕・処刑され、反乱計画が露見してしまう。ここに至って張角は総決起の期日を早め、全教徒に挙兵を指示した。西暦184年「黄巾の乱(こうきんのらん)」の勃発である。
黄巾軍は連戦連勝し、天下を震撼させたが、弾圧事件・党錮の禁(とうこのきん)を解除し皇甫嵩(こうほ・すう)らを司令官に起用して遅ればせながら態勢を整えた政府軍は南陽・潁川で、そして教団の本拠地である鉅鹿でも黄巾軍を撃破し、黄巾軍を追い詰めていった。さらに教祖・張角が病死し、反乱の平定は決定的となってしまう。
結局「黄巾の乱」は一年経たずに平定されたが、漢朝の権威を失墜させ、この後大小の反乱が続発した。政府はこれに対応して大官「州牧」を設置、時代が群雄割拠へと推移していくのである。
|